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タイトル:佛縁を育む

息を吐けば、白んだ息が寒風に流される。


花を携えた指先が赤みがかってひりひりと。


たまの休日に私はある場所へ向かって歩を進める。目的があるときの足取りは実に快活だ。インドへ向かった三蔵法師も奮迅の歩みで一歩一歩、シルクロードを踏破したのだろう。


私の目的もそれと同義だ。仏に会わんと、寒さをものとせず向かっている。


私のお寺から5km歩いた場所に、大体1mほどの高さがある観音像が鎮座している。台座には「東雲(しののめ)観音」と彫られている。観音像が見つめる先には「東雲(しののめ)公園」という大きめの公園がある。「東雲観音」が在るから「東雲公園」なのか、「東雲公園」が在るから「東雲観音」なのか、町内にいる人たちはみな知らないと思われる。当然、私も知らない。


鶏が先か、卵が先か程度の話でしかないのだろう。


私はこの観音像に時々、生花を供えに来たり、お盆の時期にはお経を唱えに来ている。


いつ誰がどんな目的で建てたのか。気になるところであるが、子どものころから線香も花も供えられていない観音像が気になっており、仏門に入ってから時折、何か供養になればと供えている次第である。


その日も花を供えるために向かっていた。


辿り着くと珍しいことに、お線香を供える台の上にお菓子が置いてあった。お菓子といっても、特段、立派な箱に入れられたものではなく、近くの駄菓子屋で買えそうなものであった。


「一体誰が置いていったものであろうか」


そう口に出して、「東雲観音」が見つめる先を私もぼんやりと見やった。


その先には公園の広場がある。


子どもの声が聞こえた。椅子に腰かける老人が見えた。自転車の車輪が回る音が響いた。


供えたのは一体誰だろうか?


分かるはずがない問いである。


しかし、この問いは大して重要なことではない。


この「東雲観音」を共に供養してくれる存在、「勝友」に出会えたことが重要であると思った。


「僧は勝友なるがゆえに帰依す」


これは釈尊が残した言葉の一つであると言われている。


ここでいう「僧」とは頭を丸めた人物のことではない。


たとえ利がなかったとしても、他者に慈しみを持って接することができる人物を「僧」と呼ぶのではないかと、近頃は考えている。


ここにお菓子を供えた人物は、慈悲に満ちた人物であったのだろうと勝手に推察した。


「勝友」とは益などをまったく求めず、お互いの励みになる者たちを指すのだろう。


常世で「仏縁」があることを実感できることは法悦であるのだろう。また幾分か時間が過ぎたころに、ここで次にどんな「勝友」と邂逅できるのか。日々を行ずるための素晴らしい糧である。

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