出逢い直し
- Shojin-Project

- 7月25日
- 読了時間: 2分
更新日:7月27日
皆さんは「手入れ」という言葉をどのように捉えているだろうか?
以前の私は、単に掃除をすること整備することであると考えていた。たとえば庭木なら、外に跳ねて不格好になった部分を切り落とし、外見を綺麗に整えることのように。
ある日、植木屋さんと一緒に庭の整備作業をさせてもらう機会があり、その認識は大きく覆された。
「若さん、枝先だけを切るんじゃ手入れにならないよ。手入れはね、手を入れるから『手入れ』なんだよ」
その言葉とともに、庭師さんは腕を枝の生い茂るツツジの中へと深く差し込んだ。そして茂みを突き破るように生えていた異なる楓の幼木を地面の根元から、ハサミを入れて切り落とした。
これまでの自分は、手入れをしたつもりになっていただけだったんだと、痛感した瞬間だった。

道を極めようと真剣に歩んでいる人の言葉には、経験に裏付けされた血の通いと深みが溢れている。私は研ぎ澄まされた言葉や人と出逢う瞬間、出逢い直す瞬間がたまらなく好きだ。
普段、約束をして人と顔を合わせるときには
一般的に「会う」という字を使うだろう。
しかし、もう一つの「逢う」という字には、
運命や、感動を伴うニュアンスがあるように感じる。
目の前のことや、普段何気なく使っている言葉。
それらを立ち止まってよくよく味わってみると、より一歩進んだ解釈に出逢えることが多い。
大人になった今でも、すでに出会っていたはずの言葉と「出逢い直す」ことで、世界の捉え方は鮮やかに変わっていく。
知識として知っていることと、実際に体感するということは全く違う。
例えば坐るという行為一つをとってもそうだ。よい姿勢で坐るには骨盤を立てた方がいいという知識はあるが、実感として良くわからなかった。とある坐禅会において自分の手で坐骨の輪郭を認識してから、坐骨で地面を捉えたときの驚きを鮮明に覚えている。坐骨を通して自然と骨盤が立つ感覚と「坐る」ということに出逢った。当たり前の坐るということに20年越し改めて出逢い直したあの瞬間の拍動が忘れられない。
言葉や経験に対して、知識や記号として「出会う」のではなく、血の通った智慧として「出逢う」こと。改めて手にとり「出逢い直す」こと。
私は、新たな出逢いが楽しみで仕方がないのだ。
だからこそ私は、新たな出逢いに気づけるよう
真剣に、この身を通して愉快に今を生きている。
真成




コメント