「百尺竿頭一歩を進む」
- Shojin-Project
- 2022年9月16日
- 読了時間: 2分
更新日:2023年6月23日

このコーナーで皆様にずっとお伝えしたいと考えていた禅語があります。
「百尺竿頭一歩を進む(ひゃくしゃくかんとういっぽをすすむ)」です。
これは修行道場でしばしば修行僧にむけて贈られる言葉です。国語辞典では次のように説明されています。
すでに工夫を尽くした上にさらに向上の工夫を加える。また、十分に言葉を尽くした後にさらに進めて説く。(広辞苑)
「百尺」は現在の単位で約30メートル。「竿頭」は長い棒の先端を指します。これは何かしらの物事に対して手を尽くした状態のたとえ。その竹竿の先端にのぼってさらに「一歩を進む」。やりつくした、極めたと思ってもさらに工夫をしてよりよくする、という意味です。
修行道場でもこの意味で用いられることはあります。自分は修行を尽くしたと思っても、そこで止まらずにもっと精進しなさい。老僧たちはそんな励ましの意味を込めて、修行僧にこの言葉を贈るのです。
しかし「百尺竿頭一歩を進む」にはもう一つの意味があります。この禅語は、中国の長沙景岑(ちょうさけいしん)という禅僧の言葉がもとになっています。
百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖も未だ真と為さず。百尺竿頭に須らく歩を進めて十方世界に全身を現すべし(無門関)
「百尺竿頭に坐する」は、修行をし尽くした先の境地に座り込んでいる人を指します。修行の果ての到達点に座り込んでいる人は、一応そこまで行ったにしてもまだ真の境地ではない。百尺竿頭からさらに一歩を進めて、その身を世界にさらしなさい、という教えです。
修行に修行を重ねて、仮に修行の到達点にたどり着いたとしても、そこで満足してはならないというのです。百尺竿頭の先にたどり着いたら、その境地に安住するのではなく、そこから飛び降りて世のため人のために役に立つ。その時初めて、修行で得た気付きや経験が意味を持つというのです。
私が修行道場を離れてもうすぐ3年が経とうとしてます。ご縁をいただいて、現在はShojin-Projectに身を置いていますが、その中でも「百尺竿頭一歩を進む」の教えを忘れないように心がけています。
一つは、お釈迦さまから受け継いできた教えへの理解をより深めるため。もう一つは、受け継いできた教えと、教えを学び実践してきた中での気づきを皆さんに伝えるため。どちらもまだまだ百尺の半ばにも届いた気がしませんが、立ち止まることなく、一歩一歩進んでいきます。
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