お経の王様『法華経』を現代語訳で読む
- Shojin-Project
- 2022年11月4日
- 読了時間: 5分
更新日:2023年6月23日

今回のひんでい本棚は、植⽊雅俊訳・解説『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』(⾓川ソフィア⽂庫)をご紹介します。
『法華経(ほっけきょう)』は、⼤乗仏教の代表的な経典です。世界の仏教国や⽇本の各宗派でも尊重され、曹洞宗では「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」「如来神力品(にょらいじんりきほん)」「観世⾳菩薩普⾨品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」などが読誦されます。
⼀⽅で、近現代の仏教学では、経典の内容を修行実践の指針ではなく思想と捉えるため『法華経』に描かれる摩訶不思議な描写を、近現代的な視点(=神秘主義との決別)でバッサリと切り捨ててしまう傾向もあります。(今回ご紹介する現代語訳版の解説も、御多分に漏れません…)
しかし、伝統的な仏教の祖師⽅が、『法華経』にみられる仏の世界に立脚して仏法を説かれていることをふまえると、そのような視点で『法華経』をとらえてしまうのは⾮常にもったいないことだと思います。
今回ご紹介する『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』は、原典を丁寧に検証した上でわかりやすく縮訳されているため『法華経』の教えをスムーズに追えるようになっています。
ぜひ「近代的な価値観」という⾊眼鏡を外し、⾃⾝の⼼の反応に素直になって、文字によって説かれた「仏の世界」の⼀端を⽬の当たりにしてほしいな、と思います。
(Wikipediaより)
“―私は、この法⾨において、すべてのブッダの法、すべてのブッダの威神⼒、すべてのブッダの秘要[の教え]、すべてのブッダの深遠な領域を要約して説いたのである。それ故に、良家の息⼦たちよ、如来の私の⼊滅後、あなたたちは、この法⾨を恭敬して、受持し、説き⽰し、書写し、読誦し、解説し、修⾏し、供養するべきである―”[如来神⼒品(第⼆⼗⼀)]
道元禅師は、仏弟⼦は仏の教えの集⼤成である『法華経』を敬い「所持して、読経し、書き写し、解説をして、それに基づいて修⾏し、⼤切に取り扱うべきだ」という教えを大切にして『法華経』を参究されました。
”―良家の息⼦たちよ、果樹園であれ、精舎であれ、在家の家であれ、森であれ、町であれ、⽊の根元であれ、宮殿であれ、住房であれ、洞⽳であれ―、この法⾨が読誦され、解説され、説き⽰され、書写され、考察され、語られ、詠朗され、写本になって存在する地上の場所には、どこであれ如来のためにチャイティヤ(経塔)が造られるべきである。理由は何か?地上のその場所は、すべての如来の覚りの座であると知られるべきであるからだ―”[如来神⼒品(第⼆⼗⼀)]
道元禅師は死の間際、「如来神⼒品」の⼀節を唱え、療養していた部屋の柱に「妙法蓮華経庵」と書きつけた逸話もあり『法華経』参究への並々ならぬ想いが伝わってきます。
(Wikipediaより)
『法華経』には感動的な⾔葉や、核心を突く鋭い言葉が数多くありますが、経典としての真価は、内容全体を通読し、各章に張り巡らされた壮⼤な伏線を回収することにあります。
その上で重要なポイントは、「私たちの普段の物事の捉え⽅と全く異なる、仏の世界(=伝統的な仏教の価値観)を受容すること」です。
「如来神⼒品」には、釈迦如来と多宝如来がブラフマー神の世界まで⾆を伸ばすと、そこから天⽂学的な数の菩薩が空中に現れ、幾百千年に渡って法を説いた、という場⾯があります。
これは、悟りをひらき、時空や物質的な制約から解放された存在(如来や菩薩)の様⼦を、そのまま描写したものです。
普段の私たちの価値観では冗談のように思えてしまいますが、伝統的な仏道修行の指針に照らすと、私たちはまだ修行を十分に積んでいないので、このような如来や菩薩たちの姿や声を観たり聴いたり出来ないだけ、という捉え⽅になります。
(Wikipediaより)
ここで、仏の世界である『法華経』を読み解くヒントになる、仏の3つの現れ方「法⾝(ほっしん)」、「報⾝(ほうじん)」、「応⾝(おうじん)」についてふれてみようと思います。 仏の本当の姿は、法⾝(ほっしん)とよばれる、不⽣不滅の存在(真如・仏性)です。この法身に辿り着く(帰り着く)ことを悟りといいます。法身には姿かたちがないため、仏が法を説くときは、相⼿に合わせた報⾝や応⾝で現れます。
報⾝(ほうじん)は、物質界への執着から離れた清浄な世界で活動する、如来や菩薩の⾮物質的な⾝体のことです。この報⾝は、修行を十分に積んだ後でないと知覚できません。
そのため、修行を始めたばかりのものには、如来や菩薩は応⾝(おうじん)という、⾁体をもつ仮の姿で教えを説きます。歴史上の “ゴータマ・ブッダ”としての釈尊は、この応⾝の姿です。
(Wikipediaより)
仏が教えを説く⽅法には、五感で知覚できる物事を通して仏法を説く⽅法と、⼈智を越えた仏の世界をそのままに説く⽅法の⼆通りがあります。
前者は禅の語録や問答などによく⾒られ、後者は『法華経』の世界観に当てはまります。しかし両者は相反するものではなく、禅の語録や問答なども『法華経』で説かれる仏の世界を十分に承知したうえで、⼈間の五感を通して知覚できる部分だけで説かれているのです。
曹洞宗の祖師⽅も双方をふまえて、仏法を説かれています。
“―願⽣此娑婆国⼟し来れり、⾒釈迦牟尼仏を喜ばざらんや―” ([私たちは過去の仏縁によって]この娑婆世界に⽣まれることを願って来たのに、どうして釈迦牟尼仏にまみえることを喜ばずにいられようか)『正法眼蔵』「⾒仏」巻
例えば『修証義』にも引⽤されるこの有名な⼀節は「釈尊と私たちは、過去に師弟として共に修行した縁で、衆⽣を悟りへと導くため、⾃ら願って苦しみの多いサハー世界(私達の住む世界)に人間として⽣まれてくる」という『法華経』「化城喩品」「法師品」などの内容をふまえています。また『洞⾕記』における瑩山禅師の「私は遥か昔に悟って以来、仏道によって衆⽣を救うために五百回⽣まれ変わっている」という回想も『法華経』の視点をふまえると合点がいくのではないでしょうか。
今回ご紹介した『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』は『法華経』に興味がある⽅だけでなく、禅の祖師⽅の教えをより深く理解したい⽅にもおすすめです。ご興味がわきましたら、ぜひ⼿に取っていただけると嬉しいです。
渡部 妙香
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