明治時代の傑僧 西有穆山
- Shojin-Project
- 2022年4月22日
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更新日:2023年6月23日
今回は明治時代に活躍した、西有穆山(にしありぼくざん)禅師をご紹介します。明治という激動の時代に全国各地を布教して歩き、特に修行道場である中央寺(北海道札幌市)を開かれるなど、全国の教化活動に心血を注いだ功績は大きく、明治34年(1901)には大本山總持寺の貫主(住職)、その翌年には曹洞宗管長となりました。晩年には明治33年(1900)に創建された西有寺(神奈川県横浜市)にて過ごされました。
穆山禅師は文政4年(1821)、現在の青森県八戸市に誕生しました。9歳のころ、母の実家の菩提寺にあった地獄極楽絵図を見て、出家を決意します。13歳になり、その強い気持ちを両親に示し、最初は反対していた両親でしたが「日本一の大和尚になる志をもって励むように」と約束を交わし、出家を許されました。菩提寺の住職、金龍(きんりゅう)和尚に弟子入りし、仏門への道を歩み出します。

大変な努力家、そして勉強家であった穆山禅師は、永平寺(福井県)をお開きになった道元禅師が著した『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の参究にご尽力されました。坐禅をはじめとする日々の修行を通して仏法を実践し、自分で納得するまで道元禅師の教えを参究し続け、多忙な中でも修行僧に講義をすることを惜しみませんでした。修行僧と共に作務(お寺の労務等々)をし、その休憩中でさえも講義を始められ、少しの時間でも、次世代を担う修行僧たちを導き続けたのです。

弟子である岸沢惟安(きしざわいあん)師によって語られた、穆山禅師が83歳頃のお話です。『正法眼蔵』を連日講義され一週間ほど経ったころ、穆山禅師は体調を崩されてしまいました。医者を呼ぶという話になると「講義をやめろと言われるから、呼んではならない。眼蔵がわしの命だから、眼蔵と一緒に死ねば本望だ」そう仰って、医者を呼ぶことができませんでした。講義に来られていた老師方と頭を悩ませていると、惟安師がふと思いつき「講義は毎年やっていただくのだから、来年を楽しみに今年はこれで止めていただく。そう言ってみなされ」と提案し、老師方がそのように説得するとようやく「うん、止めよう」と仰いました。
道元禅師の正しい教えを伝えることに生涯を捧げた西有穆山禅師。現在、道元禅師や『正法眼蔵』についての解説書が多く書店に並んでいるのは、穆山禅師をはじめ祖師方による不断の努力の結晶とも言えるでしょう。この恩恵にあずかり、日々の修行、教えを有難く頂戴しなければ、と身の引き締まる思いです。
軽部真生

参考文献:『西有穆山という生き方』伊藤勝司 編著 西有穆山禅師顕彰会 協力
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