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正しい道に向かって歩く




先日、とある海沿いの山に行ってきました。


目的はレジャーではなく、自分自身に向き合うための「修行」です。


明け方の寒さの中、案内をして下さる地元の方の後について、山道を全力で駆け抜けていきます。


日頃の運動不足がたたり、あっという間に呼吸は乱れ、体中が痛み始めます。

でこぼこした足元に気を取られていると、案内の方の姿を見失ってしまいました。


(…見知らぬ場所に、ひとりで取り残されるのが恐ろしい。

迷惑をかけて、難色を示されたらどうしよう…)

 

そんな焦りを感じながら歩みを早めると、目の前に分かれ道があります。 


パッと開けた「明るい道」と雑然とした「薄暗い道」、果たしてどちらを選ぶべきだろうか。

 

立ち止まり、目を凝らして、耳を澄ませます。

しかし、人の気配は感じられず、声を上げても返事は聞こえません。

 

一瞬、思考が停止します。


(…率直な心情としては「明るい道」を進みたいけれども、

目的地の方角から推測すると「薄暗い道」の方が近い気がする…)


ひととおり悩んだ末、若干の違和感を覚えつつも「薄暗い道」を選びました。


(「明るい道」だったら、ある程度は目的地を推測しながら歩くことが出来るかもしれないし、間違えたとしても自力で下山できる可能性がありそうだ。

 

「薄暗い道」だったら、絶対に自力で目的地を推測することは出来ない。このまま案内の方に追いつけず距離が開いてしまったら、目的地に辿り着けないかもしれない。)


一度決断をすると、自身の下した判断を正当化する理由が次々と思い浮かんできます。


(経験豊富な人からすれば、素人目には細くて草木が生い茂った道でも、ちゃんと先にあるものを見通しているかもしれない…)


しかし、道を進むほど視界を遮る草木は多くなり、足元はどんどん細っていきます。


とうとう、自身の本心を誤魔化しきれなくなりました。

 

「ダメだ、もうこれ以上は進めない。引き返そう…」

 

 

元来た道を引き返すと、そこに案内の方の姿がありました。

 

「それは、獣道(けものみち)です」

 

自分が足を踏み入れていた「薄暗い道」は、人ではなく動物が通る道だったのです。

 

「人の道を歩んでいるのならば、獣道に迷いこむことはありません」


厳しい言葉に、思わず耳を防ぎたくなります。

しかし、獣道に引き込まれたのは事実です。


冷静になって思い返せば、分岐点で「薄暗い道」を選んだとき、

理性と客観性を欠き、感情と思い込みに突き動かされて行動を起こしていました。


未知の場面でも「誰かに助けてもらえるだろう」と他人の労力を期待する狡猾(こうかつ)さ。

ひとりぼっちで取り残される不安から、わかりやすい目先の目標に飛びつく安直(あんちょく)さ。

経験や実力を伴わない生半可な知識を、大事な局面での判断材料にする迂闊(うかつ)さ。

客観的な視点を忘れ、自分にとって物事を都合よく解釈して安心する傲慢(ごうまん)さ。


有事の際には、常日頃の言動が反映されるといいます。

今まで見て見ぬふりをしていた自身の心の「薄暗い側面」を、目の前に突きつけられました。



案内の方は、再び速度を上げて、先へ進んでいきました。

今度は姿を見失わないようにと、必死で追いかけていきます。

 

やがて、海が見える場所に辿り着きました。

日の出の時間が迫り、水平線が赤く染まっていきます。

 

案内の方が、見晴らしの良い大きな岩の上の席を譲って下さいました。

 太陽が昇りはじめると、光がこちらに向かって伸びてきました。

 

目の前の海面には、天に向かう真っ直ぐな一本道が輝いていました。 

この「明るい道」こそが、人が歩むべき道なのでしょう。


「お天道様に向かって、まっすぐ正直に歩んでいかなくては…」

 

都会の生活へと戻ってきてからも、毎日空を見上げては、この日の決意をくりかえし刻み込んでいます。


渡部妙香



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